斉藤ノヴ 〜デビューへの道のり
京都より上京後、築地の魚屋、八百屋 等でバイトをしつつ生活する。(魚屋は臭いがとれないので直ぐ辞める。)本人は唄をやりたいが、どうしていいか解らず状態でバイトを続けるが、最悪の時は1ヶ月間、(即席ラーメンを1箱買い、もやしで量を増やし更にラーメンもふやかして増量して食べた。)その後、浜口庫之助ミュージック・カレッジへ入学。
事務所の手伝いをしつつ、にしきのあきらと共に住込み状態の生活が始まる。この時、トリオ・パゴン(ブラジルの3人で構成されたバンド:それぞれ特異な楽器で個人優勝した事のある人々。日本のTVではビックリショーに出演?)が来日、ボウヤとして同行する。
斎藤は相変わらず唄をやりたかったが、師よりソロでは下手なので無理。デュエットにしろとの指示で、同カレッジの友人である下田逸郎とグループを組む事になる。(シモンサイ)斎藤はドラムはかじっていたが、このデビューの為、パーカッションを学ぶ事になる。
師の持っていた古いくさったコンガがあったので、それで練習しようとしたが、「大事な物だから叩くな!」と言われ、金も無く楽器も買えないので、丸1日中ブロックを叩いた。
然しブロックだとあまりにも手が痛いので、レンガに替えて練習を続けた。同、事務所の人がこれに見兼ねてコンガとボンゴを買ってくれる。
斎藤は正しい叩き方も何も知らないので、自己流でとにかく手の皮を強くする事に専念した。半年位は、とにかく周囲にある物を何でも叩き続けた。
手は紫色に腫れ上がり、茶碗も持てない状態だった。
この頃は、師の持っているブラジル系のテープ等を聞いて練習するしか手段が無く、とにかく音だけが頼りだった。

シモンサイでデビューした後、なんと下田逸郎は、黄金バットの音楽監督とし東京キッド・ブラザーズに入りN・Yへ行ってしまった。
バンドの活動は停止。然し当時、パーカッショニストとしての仕事も無く、再び辛い生活が始まる。バーテンダー、肉体労働、スナック店員、ボーイ、などあらゆる職種でバイトをする。
その2年後、スタジオ・ミュージシャンとして浅川マキのレコーディングに参加、リリィのバイバイセッションバンドのメンバーになるなど、プロフィールに続く。